コミュニティ形成と自己実現は比例していく
本拠地には「これをしなくてはいけない」という強制的なものは存在しない。
今は毎週日替わりで曜日担当者が来てくれているが、その日やってほしい作業的なことは伝え、時間内の動きについては規定がない。
今回は本拠地での動き方について書いていこうと思う。
主体的に動くには自分で評価する強さが必要
時間や業務で縛らないという形態は、通常の会社とは真逆な働き方ではあるけれど、それをすることによって「本拠地を盛り上げる」という責任というか連帯感というか、そう言ったものが自然に生まれてくると思っている。
やらされごとではなく自分の使命として関わると、プライベートの時に自然と話しに出てきたり、紹介が起きたり、口コミが起きたりと、こちらが想像する以上の嬉しいことが自然と起こってくるから不思議なものだ。
たまに、管理人以上に管理人のような役割を担う人も現れる。
自分のお店ではないのに、まるで自分のことのように心配したり手をかけたり、テコ入れしたり愛情を注いでくれるのをみると不思議な感覚になる。
「どうしてそこまで思ってくれるんだろう」と考えると、やっぱり本拠地は「期待と不安」が集まるからなのだと思う。
自立とは変える意思を持つこと
本拠地が他のコワーキング、シェアスペースと違うのは、カウンセリングという位置づけに近いからかもしれない。
困ったときの相談所。
人は、困ったどうしようというときなかなか人には言えなかったりする。
友人ではその後の人間関係が崩れてしまうのではないかとか、嫌われてしまうのではないかとか、受けれてもらえるかを考えてしまう。
また、仕事とプライベートを分けているとさらに打ち明けられる人は限られる。
困ったときの最後の手段は家族で、大帝のことは家族は受け入れてくれるけど気持ちは外に向かっている。
社会の中にいてもいいという安心感を持ちたい。
そう言った時に、意外と困りごとや不安を言えるところは少ない。
本拠地は自己実現したい人の基地になる
運営活動をするにあたっては居心地の良さというものは気をつけていて(居心地=綺麗さではない)モヤモヤしていたり、何かやりたいけどどうしていいかわからないという人にとっては本拠地は「基地」になる。
人の心理として、衣食住が満たされると次は誰かに認めて欲しいとか認められたい、求められたいという欲求が生まれてくるけどそれは一人では達成できない。
これはよく言われるマズローの欲求で表される。
社会的欲求までに達すると、その対象は誰でもいいわけではなくてある程度自分に関わりがある人やジャンルが似ている人になり、その達成感はさらに高まる。
尊厳欲求まで満たされるからなのかもしれない。
さらにいうと、本拠地を通して活動するにあたって気をつけているリーダー像というものがある。
前にも少し書いたかもしれないが、本拠地はトップが輝きそれに惹かれて人が集まるというスタイルのコミュニティの形を取っていない。
圧倒的なリーダーシップ。
もちろん、何か活動するにはリーダーは必要だけど究極リーダーは思念でもいい。
それをもとにそれぞれが考え、動き、成長してまた違う輪が繋がっていく。
そんなコミュニティや団体は見たことがない。
だからこそ作りたい。やってみたい。
自由と不安は隣り合わせ
規定がなく自由だ。
ということは、不安や責任といった重くのしかかってくる重圧も選択するということ。
自分がやったことは自分が責任を持つ。
それは当たり前のことだけど、大企業や会社に入ると「会社がなんとかしてくれる」意識が出てきてしまい「自由=責任放棄」が強くなる。
でも本来、自由を手にするにはその責任を自分が持つもの。
自由を選択する覚悟。
覚悟という時はどちらも「さとる」と読むが、仏教用語でいう覚悟は迷いを去り、道理をさとることとある。
諦めたり観念したりという意味の覚悟ではなくて、真理を見据えて智慧を得るのが覚悟。
それは持とうとして持てるものではなく、じっくり自分と向き合っていくことで自然と芽生えてくるものだと思っている。
だから本拠地では情報だけ押し付けたり、外から圧迫したりということは極力せず参加するかしないかは本人の判断に委ねている。
参加しないから仲間ではないとか、そういったカテゴリー分別をしない。
メンバーではあるけど、そこに強制力はないのだ。
本拠地ギルドは人材バンクであり、本拠地は基地であり、講座は知識の習得、体験の場所である。
誰かについていかなくても、自分を軸にして動けるような人を増やす。
成功しても失敗しても誰かに責任を求めない。
評価できる人になる。
本拠地に「自由な人」が多いと言われるのは、そういった思いがベースにあるからなのだと思う。