泉町3丁目のこれまでのあゆみ
仲通り商店街の歩み
始まりは荒野から
寛永の頃は「荒町」と名がつき、狸や狐が出没する野っ原で狭い道の両側が茅屋がぽつぽつとたつくらいの荒れ果てた町でした。この荒町から、商人の町であった隣の木町が通じるようになると、間を取って「荒木町」となり、荒町の将来性を見越して店を開くようになって商家の町並みを作るようになっていきました。
光圀公により命名される
いつまでも荒町では、ということで(あらまち)の響きを残し「新町」としていたところ、火事が度々起こるようになりました。木町でも火事が度々起こった際に火に強い金にかえて「金町」と改名された例に習って、水戸藩主の光圀公に改名を願い出たところ「然らば火に強い水にせよ」とのことで「泉町」と名付けられました。
上市が抜けて泉町へ
その後に「東茨城郡上市泉町」と呼ばれていましたが、明治新政後に「茨城県」となり郡制がしかれました。明治22年の市制施行により「水戸市」となり、その年の11月1日から「水戸市上市泉町」と呼ばれるようになりました。その後、昭和6年には「上市」が抜けて今の「水戸市泉町」となりました。
表通りの金刀比羅神社
泉町3丁目には金刀比羅神社があります。讃岐琴平町象頭山の中腹に鎮座し、祭神は「大国主命」。寛文の頃、江戸時代初期に町内の住人黒沢又蔵氏がかねてより崇拝していた讃岐の金刀比羅神社を勧請しました。
商売繁盛、航海、交通安全の守護神として今も大切にされています。
水雷稲荷と泉町
仲通り商店街より細い通りを一本挟んだところに、水雷稲荷神社がひっそりと佇んでいます。
これは、もとは伊勢富という造り酒屋の屋敷であったところを明治の末に上金町の豪商富田彦市という人物が買収し、下市の蓮池町より稲荷を勧請し社を建てたと言われています。
仲通り商店街と門看板
昭和50年頃、仲通り商店街は飲食店が並ぶ通りとして一品の門看板を掲げて始まりました。
大きなビルもなく、2階建てのテナントがずらりと並び夜になると毎日が暮れのように賑やかで人で溢れていました。
震災後の仲通り商店街
2011年の大震災のとき、倒壊や店内の破損により長らく休店せざるを得なかったお店もありました。また、シンボルである門看板も破損し明かりが消えてしまいました。
門看板の復活
2015年、水戸の中心市街地を盛り上げる活動の一環としてクラウドファンディングで資金を募り、3代目の門看板が誕生しました。